tillandsiakiko’s diary

チランジアの栽培日記

信仰について

特定の宗教団体に属したことはないし

属するつもりもないけど

人間を超えた力の存在を信じている

 

東洋的な

万物の中に神がいる と言う考えを

ヨガをやっていた時に少し深く学んで

感銘を受けた

 

同時期に始めた引き寄せの法則でも

それを通じて

たまたま友達に教えてもらったりした人のブログや本でも

 

全ては1つで、大いなる意識=神が

全てを創造していて、自分自身ももちろんその一部であり

自分も一度もそこから切り離されたことがないものである

全ては今、目の前に存在するものだけであり、それ以外は実在しない

永遠に  今  の繰り返しである

 

ということが述べられていて

それが真理なのかなと今のところ思っている

 

 

その上で 最近キリスト教を勉強し始めた。

独学ではなく

シスターの講義を定期的に受けると言う方法で。

 

キリスト教一神教で神様と人間の上下関係のような、契約とかなんだか厳しいものというイメージで、

最近は海外でも禅とか東洋的なものを好む人が増えているときいたし

今の私には関係ない思想かなと

ヨガを真剣にやっていた時は思ったりもしたけど

引き寄せとかのブログを書いている人が

キリスト教も突き詰めれば同じことを言っている

といってて、

今それが本当なのか自分なりに検証しているところ。

 

 

聖書は何も知らない状態で読むと

絶対誤解してたなって思うことが多くて、

からは、人について学んで良かったなと思った。

 

私の信じている神様は

この世界、宇宙全てを作った存在で、

それは神様というより

私たち一人一人の中にある

まさにその "意識"  だという

考え方なのだけど

 

キリスト教の世界観って

特に今カトリック教会で勉強しているから

余計にかもしれないけど

 

深淵で厳かな感じがする

 

それだけで自然と心が洗われるというか

背筋が伸びるというか

ありがたい感じがして

 

神様という考え方の方が自然と

自分の境遇などに感謝できたりする

ということに気がついて

 

その意味ではキリスト教的な神様も

アリだなぁと思っているところ

 

 

何にせよ

自分を超えた力を信じることって

どんなに人と関わっても結局は

自分一人でこの世を生きる宿命を背負わされた

人間にとって

時に心の支えとなり、また

傲慢を省みる、心が立ち戻る場所となる

大切なものなんだなと最近は思う

 

それが信仰の意味なんだろうなと。

 

だから宗教には属していないけど

私には信仰があるといえると思う

 

この自由な感じが

今は 気に入っている。

 

f:id:tillandsiakiko:20170630082051j:image

マリア様は

受胎告知を受けた時に祝福され

Ave Mariaとなられたそうな。

それは恵まれたものという意味らしくて

聖書ではルカ福音書に書かれているもので

その時のマリア様の神様を信じ受け入れる態度が

キリスト教者にとっての信仰の要になっているらしい

 

 

神様を受け入れ信じる

私には信仰があるといっておきながら

大事な時ほどそのことを忘れがちな気がする

 

私は生きているのではなく生かされている

それは私に限らず家族も他の人も皆同じである

みんな、神様の大切な子ども。

そのことを常に忘れないようにしたいと思う

それを忘れることはとても傲慢なことなのではないかと思う。

…ということを、

子どもに腹を立てている時に思い出せれば

少しは 怒らなくて済むようになるかしら。